京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

嵐山  大堰川を開削した角倉了以 お前が決めろ

王朝趣味の本質に合致した景観

それは鎌倉時代のこと。

後嵯峨上皇が仙洞亀山御所を造営するとき、大量に移植したのが、吉野の山桜の苗木でした。

その桜が満開になったとき、一陣のつむじ風が吹き、花びらが嵐のように飛び散ります。

その様を見た上皇は、御所のあるこの山を「嵐山」と命名しました。

以降、王朝貴族によって、この嵐山一帯の場所は大切に保護されてきたのです。

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もともと平安時代から京都のお公家さんたちは船遊びを好んだので、宇治川・桂川は格好の場所だったのです。

邸内にも大きい池を造って船を浮かべ、詩・歌・管弦を船中で興行することによって、心を満たしていました。

そして、嵐山のある桂川は御所からも適当な距離でしたし、周囲の景色が大和絵風の構図のようだったので、特に王朝趣味の本質に合致していたんですね。

古くは、桓武天皇いらい何度も行幸があり、円融天皇(在位969〜84年)のとき以後から、詩歌管弦の船遊びがさかんに行われていました。

まさに、はんなり、風光明媚な雅の世界がそこにあったのです。

人々の暮らしを豊かにした男

それから江戸時代まで、皇族や貴族から遊行の地として注目されてきたこの嵐山でしたが、それとは全くちがう視点で嵐山の景色を見る一人の蛮骨な男がいました。

かわる代わる京都に現れた信長・秀吉・家康という権力者のめまぐるしい交代を、彼はその目でみてきたのです。

そう、時代は激しく動いているのです。「はんなりとか、そんなんは、もうええよ」と、その男はつぶやきます。

慶長9(1604)年、角倉了以(すみのくらりょうい)は、大堰川(桂川の嵐山から上流)を開さくし、丹波(京都府北部)から京洛への物資の運搬を容易にして、洛中の人々たちの生活を一変させたのです。

老の坂という山中の路を、ゆっくりと運ぶしかなかった丹後・丹波の米や生糸・木材は、船便でスピーディに運ばれることで、たちどころに京洛へ到着することになります。

洛中は大消費都市でしたので、米や薪の価格は下落しました。その結果、人々の暮らしを豊かになったのです。

原料が安く手に入るようになった京の織物は発展し、米が安価になったので酒の生産は増加しました。

そして、了以が開通させた高瀬川によって、その製品は大坂にも運ばれ、利潤となってまた京へ戻るのです。

空に吠えろ

ですが、大堰川の開さくというのは並大抵の工事ではありませんでした。

川端にある大石は網をかけロクロでひいて除きます。水中にあるものは船の上に櫓をつくって、鉄棒に長い柄をつけたテコを使い、石を持ち上げほうり投げます。

何十人という、つわもの達で取り掛からねばなりませんでした。

焼けつくような炎天下の中での作業のために、力尽きてそのまま倒れ、プ~カプカ~と下流に流される者もいたのです。

ですが、了以のもとに皆は一丸となって決してあきらめません。

そして、8月のうだるような暑さのなか、ついに工事が完成します。男たちが吠えつづけた歓喜の声は、大堰川の空に遠く響きわたりました。

Captain of the Ship お前が舵を取れ

 

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また、了以はベトナムに船を出す、いわゆる朱印船の交易を行っていました。

角倉船とよばれる800トンの朱印船には390人の乗組員たちがいて、この巨船は慶長8(1603)年から31年間、息子の代まで17回もベトナムを行き来します。

了以は船長として立ちはだかる波のうねりを受けながら舵を取り、大海原を進んでいきます。

ときには横なぐりの雨に頬を突き刺され、ときには焼けつくような日差しを浴びながら。

そう、さまざまな災いが容赦なく彼の頭上に降りそそぎます。

己の生きざまは、お前が決めろ、お前が舵を取れ。そんなふうに自分自身に言いきかせながら、彼の船は前に前に、ただ前に突き進んでいったのです。