方広寺    ほんの一瞬だけ輝いた 黄金の大仏

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は日本の支配権を手に入れます。
秀頼の代になっていた豊臣家は、わずか60万石の大坂の一大名に転落しました。
用心深い家康は関ヶ原に勝利しても安心出来ず、しおれた花に足を踏んづけるように、無理難題を秀頼に押しつけます。そのひとつが、方広寺の再建です。豊臣家の残された貯えを枯渇させるのが目的で家康はこれを勧告します。

関ヶ原の戦いの4年前に京都を襲った大地震で、方広寺はこわれたままになっていました。
秀吉が作った初代の大仏(木像の廬舎那仏)も傾いたまま放置されていたのです。
秀頼は、父秀吉の墓前の供養のためじゃないかと家康に言われ、いやだといえなくて再興させることにします。

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新たに造られた大仏は、木像ではなく黄金が貼られた銅像でした。その高さは約20メートル、要した銅は38万キログラムです。
なんと、東大寺の大仏の1・2倍の大きさで、もしこの大仏が現在に残っていれば東山付近の景観はまったく違ったものになっていたでしょうし、東大寺の大仏の評価も少し違っていたのかもしれません。
東大寺の迫力の大仏は、誰もが目を奪われ感動するのに、まだそれより大きいのですから。
でも、黄金の大仏は長い歴史からみれば、ほんの一瞬だけしか輝くことができなかったのです。

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そして、その時一緒に造ったのが鐘です。その銘文には「国家安康(あんこう) 君臣豊楽(ほうらく)」の八文字が刻まれていました。

家康のブレーンだった金地院崇伝は「なんやこれは、家康公をのろい、豊臣家の再興をいのる呪文やないか。」と、秀頼に難癖をつけます。
たぶん、もう何を書いても文句を言われるのでしょう。それが結局、大坂の陣につながり豊臣家は滅ばされてしまうのです。

この鐘はいまも方広寺に残っています。わかりやすい様に八文字のところに白い粉をまぶしてあります。
そんなに鐘が憎いなら壊せばよかったのに、豊臣家がつぶれても鐘は残りました。家康にとって豊臣家が滅びれば鐘はどうでもよかったのです。
でも結果的に、その鐘は大坂の陣の原因を正当化した証拠物件として、後世に遺ってしまいました。

銅像の大仏はどうなったかというと、徳川三代将軍の家光のときに分解され、江戸に運ばれて銅貨に鋳直されました。「寛永通宝」になったのです。
ここから江戸250年間、さらに明治に入って27年頃まで使われた寛永通宝という銅貨は、秀頼が遺した大仏さまが姿を変えたものでした。
たとえ徳川からの提案であったとしても、桃山時代に海外へ流出がはげしかった銅を、秀頼は大仏にして国内に留めたともいえるのではないでしょうか。

秀頼は誰にでも優しい態度で接しました。優しいということは、自信を持ち余裕があるということ。幼いころから帝王学を骨の髄まで叩きこまれた秀頼は、若くして天下人のオーラを醸し出していました。

時は遡り、家康が秀頼とはじめて対面したのは、加藤清正の仲介で行われた二条城の会見です。
秀頼の威圧感たっぷりの風貌と、うって変わった柔らかな物腰に、家康は圧倒されました。
秀頼をこのまま生かしておいては、いずれ自分の身が滅びると予感し、豊臣家を滅ぼすために全力で取組んでいくのです。